自己紹介Self-Introduction
私は、小学校4年生のときから野球を始め、現在も野球に携わっております。
中学3年の野球部では、主将として春・夏と福井県中学校野球大会で準優勝を果たしました。その後、福井県立福井商業に進学し野球を続けたのは言うまでもありません。北野尚文監督のもと、来る日も来る日も白球を追い続けた結果、昭和47年の春と48年には、主将として春・夏と3回憧れの甲子園の土を踏むことが出来ました。高校時代の野球部の練習は厳しいものでありましたが、その時の厳しさが精神を鍛え、「諦めない事」と「チャンスを掴む事」を学びました。そして今現在の自分自身を作ったと思っております。
大学は、東京六大学の名門であります法政大学へ進学し、野球部に入部いたしました。大学時代は、レギュラーになることもなく卒業しましたが、同期には、読売ジャイアンツで活躍した江川卓、阪神タイガースで活躍した植松精一、ロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリンズ)で活躍した袴田英利とそうそうたるメンバーが名を連ねていました。先輩には、WBCのコーチを務めた高代延博氏など、プロ野球界で活躍した人たちと共に野球に取り組みました。この経験は、後に指導者となった時、大いに役立ちました。
大学卒業後の昭和53年、旧丸岡町役場に入庁します。役場で働く傍ら、昭和59年7月まで福井県立丸岡高校野球部で監督をし、子供達と甲子園を目指しました。残念ながら子供達に夢をかなえることは出来ませんでした。しかし、指導者というものは、一人だけの子供を見るのではなく、全ての子ども達の体調、性格、技術を把握しないと出来ない、ということを学びました。このことは、自分だけの事を考えるのではなく、周囲の事も考えなければならないという点で、社会に生きる我々にとって同じことが言えるのではないかと思います。
スポーツをする中で一番欠かせないのが審判であります。野球も当然で、審判員のプレイボールで試合が始まりゲームセット試合が終わる、審判員の「アウト!」「セーフ!」で勝敗が決まるのです。
私もそれまで多くの審判員のおかげで野球が出来たとの感謝の気持ちから、高校野球の監督を辞めるとともに審判員として、現在も子供から大人までの審判を務めています。
また、野球の普及と子ども達に野球の楽しさを教えるため、昭和54年に福井県軟式野球連盟坂井支部が創設されて以来、大会の運営に携わっています。野球を通して、子ども達には最後まであきらめない気持ちを持ってもらいたいと願っています。
これからは、市民の皆さまと市政の橋渡し役として、市民の皆さまが快適に毎日を送ることができるよう、そして、皆さまから愛される男となれるよう頑張りたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
昭和48年、対前橋工戦。夏 甲子園での初勝利。
私は一番左。
対前橋工戦で3塁を回る私。
夏3回戦、対川越工。
試合に負け、甲子園の土を持ち帰る。
丸岡高校野球部の教え子たちが「戸板会」を発足。
平成15年、審判歴20年の表彰を受ける。